Escape Airでポタリング 宮本台緑地で六郷橋の歴史に思いをはせる

ポタリング

六郷土手で赤い電車と記念撮影をした日、実は宮本台緑地を経由していました。目的は1925年の六郷橋の橋門と親柱に触れること。1984年の橋桁落下事故という悲しい歴史と、戦前のレトロモダンなデザインを後世に伝える重要な役割を担っています。なお、1910年の親柱が六郷神社に保存されていますが、この日はお祭りで賑わっていたためパスしました。

六郷橋の歴史は1600年に遡る

最初に白状すると、これ以降はほぼ六郷橋のWikipediaからの抜粋です。なので詳細はそちらへ譲るとして、ここでは僕が伝えたいことのみ紹介します。

六郷橋の歴史は、なんと400年以上前の時代にまで遡ります。六郷は東海道が多摩川を横切る要地だったことから、1600年に徳川家康が六郷大橋を架けさせたのが始まり。その後洪水で何度も流され、1688年に流された後は186年間も橋が再建されず、代わりに六郷の渡しが設置されました。

旧六郷橋 橋門

橋を復活させた鈴木左内の功績

六郷の渡しの渡し賃は、当初は東京側の八幡塚村の扱いでしたが、後に川崎宿の独占となりました。このことに対し、先頭に立って抗議したのが地元の名主であった鈴木左内(すずき さない)でした。ところが左内たちの願い出は認められず、そればかりか時代の流れにより左内は名主の階層を解かれてしまいました。その結果、かつて行動を共にした村人たちは徐々に左内から離れていくのでした。

しかし左内は一人でも橋を架けることを諦めず、私財を投げ売って事業を進め、ついに35歳のとき、長さ60間(109m)、幅3間(5.5m)の木橋を完成させました。186年ぶりに架かった橋は左内橋と呼ばれ、政府からは約4年間に渡り渡船料を取ることを許されました。しかし左内の主目的はお金儲けではなく、このことは橋が架かることによって職を失う渡し船の水夫たちに金銭的な扶助を与えていることからも明らかです。

歴史を感じる

ところが、左内橋はわずか4年で洪水によって流されてしまいます。このときの左内に橋を再建するだけの財力は恐らく無かったでしょう。左内橋が流されてから5年間、橋が無い状態が続きました。

鈴木左内の想いは文字通り水に流れてしまいました。しかし、東海道を横切る多摩川を186年ぶりに結んだ左内橋によって、人々は橋の重要性を再認識し始めました。その結果、地元の人々が六郷架橋組合を結成して1883年に六郷橋を架橋し、それ以降は何度か流されても再建され続けています。左内の情熱と功績は現代にまで受け継がれているのです。

現在の六郷橋

今も昔も六郷橋は東京と川崎(神奈川)を結ぶ重要な橋であることに変わりありません。現在は国道15号(第一京浜国道)の橋であり、また箱根駅伝の通過点でもあります。ちなみに、箱根駅伝では六郷橋を境として東京都側の交通規制・先導等は警視庁、神奈川県側の交通規制・先導等は神奈川県警察が担当しています。

現在の六郷橋

鈴木左内が現代の立派な六郷橋を見たらどう思うでしょうか。左内が眠る東六郷の観乗寺にも足を運んでみたくなりました。

六郷橋付近のグラウンド

 

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